スピリチュアルの修行は、結局なんのためにやるのか分からない。

山にこもる、滝に打たれる、何年も座る。そう聞くと、自分には縁のない世界に見えてきます。時間も、体力も、足りない気がして、入口で引き返す。

先に答えを言うと、修行の目的は、閉じているものを開けることです。そして——中身を決めていたのは、長さでも、厳しさでもありませんでした。これは僕の感想ではなく、いちばん有名な修行者の記録に、そう残っています。順番に、書きます。

修行は、何を開けるためにやるのか

人は誰でも、精神世界に触れる感覚を持っています。初対面の人に会った瞬間の「なんとなく合う」も、その入口です。特別な人だけが持っている力ではありません。

ただ、その感覚は、いまの生活のなかで閉じていきます。朝、目が覚めた瞬間から流れ込んでくる情報。一日中、手のなかで光り続ける画面。夜中まで消えない、部屋の明かり。

生活のどこにも、余白がありません。

修行と呼ばれてきたものは、この閉じたものを開ける作業でした。目的は、特別な力を手に入れることではなく、もともとあった感度の上に積もった砂ぼこりを、払っていくこと。僕は、そう見ています。

足す修行山にこもる。何年も座る。特別な力を新しく手に入れる。だから何年もかかる、と思い込む払う修行もともとある感度の上の砂ぼこりを払う。閉じているものを開ける。だから場所は、生活のなかにある足す修行山にこもる。何年も座る。特別な力を新しく手に入れる。だから何年もかかる、と思い込払う修行もともとある感度の上の砂ぼこりを払う。閉じているものを開ける。だから場所は、生活のなかにある
修行を「足す」と考えるか「払う」と考えるかで、必要な場所も時間も変わる。

6年の苦行をやめた人が、8日で終えた

ここで、いちばん有名な例を出します。

釈迦は、悟りを開く前に、6年間の苦行をしています。断食を重ね、骨と皮だけに痩せ細るところまで行った、と伝えられています。そして、その6年では、届きませんでした。

釈迦は、苦行のほうを捨てます。

村の娘スジャータから乳粥の施しを受け、川で身を清め、体を回復させてから、菩提樹の下に坐りました。伝承では、12月1日から8日間。12月8日の明け方、明けの明星を見て悟ったと伝えられています。

この日数は、いまも行事として残っています。禅宗の臘八接心という行がそれで、12月1日から8日の朝まで、僧たちは日課を止めて坐り続けます。曹洞宗の大本山では、朝4時から夜中まで、食事も坐禅堂で取るそうです。

29歳出家6年間断食などの苦行。骨と皮だけに痩せる。届かない苦行を捨てる乳粥を受け、川で身を清め、体を回復させる12月1日〜菩提樹の下に坐る12月8日明けの明星を見て、悟29歳出家6年間断食などの苦行。骨と皮だけに痩せる。届かない苦行を捨てる乳粥を受け、川で身を清め、体を回復させる12月1日〜菩提樹の下に坐る12月8日明けの明星を見て、悟る
6年やって届かなかった人が、やめて坐った8日で届いた。

6年やって届かなかった人が、やめて坐った8日で、届いた。

この話が教えていることは、ひとつだけです。修行は、長さではありません。何を観たか、です。

「もっと長く学んでからでないと、自分にはまだ早い」。そう思って、足を止めている方は、けっこういます。その前提は、2500年前に、いちど否定されていました。しかも、極端に痩せるまで苦行をやり切った本人によって、です。

逆に言うと、修行の長さを売り物にする人には、少し距離を置いていいと思っています。何年修行した、何十年続けている。それ自体は立派です。ただ、本人の到達点とは別の話で、釈迦がいちばん有名な反例でした。僕が旅で会った本物たちも、修行の年数を口にしませんでした。

成道の日数や経緯は、伝承や宗派によって異なる説があります(7日間、49日など)。ここでは、禅宗に伝わる臘八接心の由来として広く語られている伝承を紹介しています。

僕が実際に、何を受けてきたのか

僕は理系で、もともとこういう話を信じない側の人間でした。それが変わって、本物を探して世界を回りました。受けてきたものを、そのまま並べます。

京都の神社で、武術の達人から気功を教わりました。しばらく続けるうちに、気の流れが見えるようになりました。瞑想の合宿にも、入りました。ヨガでは、重心の落とし方を習いました。少し身体に触れられただけで、神経がつながるような感覚を受けたこともあります。初対面なのに、こちらの素性を全部言い当てられたことも、あります。

どれも、科学で証明されたものではありません。ただ、体感は確実にあって、実践的で、一度身につけば一生使えるものでした。

そして、旅から帰ってきて、気づいたことがあります。効いていたのは、儀式そのものよりも——旅のあいだに、生活のほうが変わっていたことでした。

向こうで受けたもの気功(気の流れが見える)瞑想の合宿ヨガ(重心の落とし方)南米の儀式持ち帰って効いたもの朝、体を動かすまともなものを食べる浴びるものを、自分で選ぶ夜に光を落とす向こうで受けたもの気功(気の流れが見える)瞑想の合宿ヨガ(重心の落とし方)南米の儀式持ち帰って効いたもの朝、体を動かすまともなものを食べる浴びるものを、自分で選ぶ夜に光を落とす
儀式は一回。持ち帰ったのは、向こうの人たちの毎日のほうだった。

いまの時代の修行は、どこでやるのか

朝、体を動かす。まともなものを食べる。浴びるものを、自分で選ぶ。向こうで会った人たちの暮らし方を、そのまま持ち帰っていたのです。

だから、いまの時代にできる修行は、山の上にはありません。眠りに入れるもの、体に入れるもの、目から入れるもの。この三つを整えるだけです。

地味です。でも、僕の観察では、いちばん確かでした。

もうひとつ、山にこもる修行と、生活に置く修行には、決定的な違いがあります。山の修行は、帰ってきた日に終わります。生活に置いた修行は、帰る場所がないので、終わりません。僕が旅で受けた儀式は一回きりでしたが、持ち帰った暮らし方のほうは、いまも毎日続いています。

釈迦が苦行をやめて最初にやったのは、食べて、体を清めることでした。悟りの前に、まず体を整えている。順番は、2500年前から変わっていません。