別の種族の話を聞いている気分になる。そう感じる方は多いようです。診断を受けて、ないと出て、やっぱりと思う。
先に答えを言うと、霊感がない人を、僕はまだ見たことがありません。差は、有無ではなく、開いているかどうかでした。そして、閉じる理由のほうは、はっきりしています。順番に、書きます。
霊感がない人は、いるのか
初対面の人に会った瞬間、「なんとなく合う」「なんとなく苦手」を感じたことがあるはずです。言葉を交わす前に、もう感じている。
あれが、入口です。
人が会話で、やりとりする言葉の量よりも、表情や、声の質や、間の取り方から受け取っている情報の量のほうが、はるかに多い。頭がそれを整理し終える前に、潜在意識のほうが先に答えを出しています。理由が言えないのは、頭を通っていないからでした。
視える人たちは、特別な種族ではありませんでした。同じ機能が、全開になっているだけです。規模が違うだけで、やっていることは、あなたの「なんとなく」と地続きです。
僕は九州の島で、その全開の人に会いました。八枚の紙に名前を書いて、火に通しながら言い当てられていく。名前の先にいる本人を読んでいるとしか、説明がつかない夜でした。ただ、帰り道に思ったのは、遠い世界の話ではなく——これは、自分が初対面で毎日やっていることの、桁が違う版だ、ということでした。
なぜ、自分では感じられないのか
ここからが、今日の本題です。感度が死んでいるのではなく、閉じているだけ——というのが僕の見方です。
そして、閉じるのには理由があります。朝、目が覚めた瞬間から流れ込んでくる情報。一日中、手のなかで光り続ける画面。夜中まで消えない部屋の明かり。考える間もなく流れてくる、他人の感情。
生活のどこにも、余白がありません。
これには、名前のついた研究があります。1995年、心理学者のカプラン夫妻が、注意回復理論という考えを出しました。人が何かに意識を向け続ける力は、使うほど疲れる。そして、都市の環境より、自然の環境にいるほうが、その力が回復する。理由は、自然のなかでは、意識を無理に向けなくても、目が勝手に休んでいるからです。
僕が世界で会った本物たちは、そろって余白のある場所にいました。島の家。山のなか。にぎやかな街の真ん中にはいませんでした。閉じるのが当たり前の環境で、僕らは、毎日を過ごしています。感度が鈍っていくのは、むしろ自然な結果でした。
あなたの感度が鈍っているとしたら、それはあなたのせいではなく、環境のせいです。責められる話では、ありません。
電波の届かない場所に、一週間いた
僕がそれに気づいたのは、旅の途中でした。電波の届かない場所に、一週間ほど、いたことがあります。
見たくても、見られない。最初の数日は、落ち着きませんでした。手が、勝手にポケットを探していました。
そのうち、静まりました。人と比べる回数が、ゼロになったんです。自分がいま、どれくらい遅れているのか。そういうことを、考えなくなりました。そして、それまで拾えていなかった小さな感覚が、拾えるようになった。誰が話しかけてくる前に、その人が来ることが分かる、というようなことが、何度かありました。
帰ってきてから、生活はいくつも変わりましたが、持ち帰ったもので、いちばん効いたのは、これでした。見るものを、自分で選ぶ。
霊感という言葉を使うのは、ここまでにします。ここから先は、精神性の話になるからです。視える・視えないの特殊能力に聞こえる言葉の、その土台にあるのは、あなたという器がどれだけ整っているか、という地味なものでした。感度が戻る人と戻らない人の差も、そこにありました。
感度は、どこで戻るのか
戻し方は、山にこもることではありませんでした。何かを足すのではなく、砂ぼこりを払っていく作業です。もともと持っているものの上に、積もっていただけなので。
新しい能力を買いに行く必要も、資格を取る必要も、ありません。手順としては、むしろ引き算のほうが近い。夜の光を落とす。画面を早めに閉じる。週に一度、木のある場所を歩く。誰といる時間を減らすかを、決める。地味ですが、僕の観察では、これがいちばん確かでした。
「自分にはない」と思っていたものが、実は閉じていただけだった。そう分かるだけで、入口はもう半分開いています。



