欲しいものを欲しがるな、と言われている気がしてしまう。それで、手放す気になれない。よく分かります。
先に答えを言うと、手放すのは願いではありません。置いていくのは、二つだけでした。そして、仏教がもともと苦の原因と呼んだものも、願いではなく、別のものでした。順番に、書きます。
仏教が苦の原因と呼んだのは、願いではなかった
ここで、調べた話を置きます。
仏教のいちばん基本の教えに、四諦があります。苦しみがある。苦しみには原因がある。原因を消せば苦しみは消える。そのための道がある。この四つです。
二つめの、苦しみの原因。そこで名指しされているのは、渇愛と呼ばれるものです。原語はパーリ語でタンハー。意味は、渇きです。欲しがること全般ではなく、渇いて、求めてやまない状態のほうを指しています。
つまり、2500年前の時点で、願うことと、渇くことは、分けて数えられていました。手放す対象は、最初から、願いのほうではなかったのです。
渇きには、厄介な性質があります。満たしても、消えないことです。喉の渇きなら、水を飲めば終わる。でも、足りないという渇きは、手に入れた瞬間に、次の足りないものを探し始めます。だから、渇いたまま願いを叶えても、楽になりません。手放すべきなのが渇きのほうだ、という話は、ここから来ています。
執着とは、何を指しているのか
まず、はっきりさせておきます。願うことは、悪いことではありません。
むしろ、願うほど近づいてきます。願いは、精神世界への正式なアクセスだからです。我慢する必要は、まったくありません。
では、何が問題なのか。手放すべきものは、二つです。ひとつは「奪ってでも」という気持ち。もうひとつは「足りない」という不安からくる欲しがり方。渇きの、二つの形です。
この二つは、見た目が似ています。どちらも、強く欲しがっているように見えるからです。ただ、中身はまったく違いました。前者は、誰かから取ってくる前提で動いている。後者は、いま無いという事実のほうを、握り続けている。
追うほど、なぜ遠ざかるのか
仕組みは、脳の側から説明がつきます。
人の脳は、探しているものだけを拾うようにできています。「早く手に入れなきゃ」と焦っているあいだ、脳が探しているのは、目当てのものではありません。まだ無い、という事実のほうです。
足りないものを、わざわざ探しにいく。だから、追うほど「無い」が見つかります。目当ての情景そのものを思い浮かべている人と、足りなさを数えている人。同じ願いを持っていても、毎日目に入るものが、そっくり逆になります。
そして——目に入るものが変われば、考えることが変わり、選ぶものが変わり、やがて行動が変わります。追うのをやめると近づいて見えるのは、そのぶんの順番が入れ替わるからだと、僕は見ています。
置いていくと、何が変わるのか
僕自身、欲しいものはいまもあります。手放したのは、欲しがり方のほうでした。
旅先で会った安宿の主人が、いい例でした。頼まれてもいないことばかりする人で、客の名前を覚えていて、翌朝のバスの時間を先に調べておいてくれる。雨の日は、言わなくても駅まで送ってくれる。だから客が客を連れてきて、宿が三軒に増えていました。本人は、先に喜ばせるだけだよ、と笑っていました。
彼は、宿を増やしたいという願いを持っていました。ただ、渇いてはいなかった。奪いにいかず、先に価値を渡す。足りなさを数えるかわりに、目の前の客の翌朝を思い浮かべる。やっていることは、それだけでした。
もうひとつ、確かめやすい目印があります。願いを思い出したときに、胸が軽くなるか、重くなるか。軽いほうは、情景を見ています。重いほうは、足りなさを数えています。同じ願いでも、握り方でここが分かれました。
手放したあとに、何が残るか。願いの向きだけが、残ります。宿を増やしたい。誰かと暮らしたい。困らないだけの収入がほしい。向きは、そのまま。渇きだけを降ろすと、願いは軽くなって、置いておけるようになります。置いておけるものは、待てます。待てるものは、届きます。
だから、諦めなくていいんです。置いていくのは、願いではなく、渇きのほうだけ。2500年前に分けられていたものを、分け直すだけで、ずいぶん楽になります。



