よく聞く話です。そして、聞くたびに混乱します。やめたほうが叶うなら、いままでの努力は何だったのか。最初から願わないほうがいいのか。
先に答えを言うと、やめたから叶ったのではありません。手を止めたときに消えたのは、願いではなく、焦りのほうでした。そして、焦りが何を奪っていたかは、測られています。順番に、書きます。
足りなさは、頭の帯域を奪っている
ここで、調べた話を置きます。
2013年、経済学者のムッライナタンと心理学者のシャフィールが、欠乏についての本を出しました。お金、時間、人とのつながり。何かが足りないと感じているとき、人の頭に何が起きるかを調べた研究です。
結論は、こうでした。足りない、という感覚は、それだけで頭の帯域を食う。判断する力、衝動を抑える力、先を考える力が、足りなさのほうに持っていかれる。彼らはこれを、帯域への課税と呼びました。そして、足りないものに意識が集中して、それ以外が視界から消える状態を、トンネリングと呼びました。
つまり、「早く叶えなきゃ」と焦っている状態は、それ自体が、叶うために必要な力を削っている状態でした。願いが悪いのではありません。焦りが、視野を狭めていたのです。
やめたら叶ったのは、なぜなのか
ここからが、今日の本題です。
人の脳は、探しているものだけを拾うようにできています。そして「早く叶えなきゃ」と焦っているあいだ、脳が探しているのは、目当てのものではありません。まだ無い、という事実のほうです。
毎朝、唱えながら、心のどこかで疑っている。ノートを開くたびに、まだ叶っていないことを確認する。そうやって、足りなさのほうを毎日確認する作業になっていた——という人は、けっこういます。トンネルの入口を、毎朝自分で掘り直しているようなものでした。
手を止めると、その確認作業が止まります。トンネルが広がって、視界が戻る。すると、目に入るものが変わります。変わったのは、願いの有無ではなく、探していたもののほうでした。
同じ願いを持っていても、情景を思い浮かべている人と、足りなさを数えている人では、毎日目に入るものがそっくり逆になります。手を止めた人は、後者をやめた、というだけのことでした。
消えたのは、願いではない
やめた人の話をよく聞くと、願いそのものは、たいてい残っています。
消えているのは、「奪ってでも」という気持ちと、「足りない」という不安からくる欲しがり方です。どうでもよくなった、と言う人が多いのですが、中身を聞くと、興味が消えたのではありません。焦りのほうが、先に落ちている。
だから、そのあとに動きが出ます。焦っているあいだは視野が狭くて、目の前のきっかけが見えていなかっただけ、ということが、よくありました。帯域が戻ってきて、きっかけが見えて、動けた。順番は、これでした。
では、最初から願わないほうがいいのか
ここが、いちばん誤解されやすいところです。
願うことは、悪いことではありません。むしろ、願うほど近づいてきます。願いは、精神世界への正式なアクセスだからです。やめるべきなのは、願うことではなく、足りなさを毎日数える作業のほうでした。
だから、ノートを捨てる必要も、唱えるのをやめる必要も、ありません。書く中身を、金額や条件から、叶ったあとの情景に変えるだけで、探しているものが入れ替わります。情景を思い浮かべているあいだ、頭は、足りなさに課税されていません。
それから、もうひとつ。届くまでには、時差があります。手を止めたあとに叶ったように見えるのは、止める前に出した光が、そのころ届いただけ——という順番のことも、よくありました。やめた効果というより、待った結果です。
やめたら叶った、という話は、正確にはこうでした。やめたのは、追いかけ方のほうです。願いは、最初から最後まで、そこにありました。



