評価されたい気持ちが消えない。認められないと、頑張った意味がない気がする。

その気持ちを、自分だけの弱さだと思っている方が多いように思います。ただ、少し古い本を開くと、この悩みがどれだけ古いかが分かります。

先に答えを言うと、論語の、いちばん最初の章の、最後の一文が、この話です。人に認められなくても腹を立てない。それを君子と呼ぶ、と。2500年前の本の一行目に近い場所に、承認欲求が置いてありました。順番に、書きます。

論語の一行目に、なぜ承認欲求の話があるのか

論語は、学而第一という章から始まります。その第1章は、こういう三つの文でできています。

学びて時にこれを習う、亦た説ばしからずや。朋あり遠方より来たる、亦た楽しからずや。人知らずして慍みず、亦た君子ならずや。

学ぶことは喜ばしい。友が遠くから訪ねてくるのは楽しい。そして、人が自分を知ってくれなくても腹を立てない、それが君子だ。

つまり、この本の冒頭は、学ぶ喜びと、友との楽しみと、認められない話の三つで組まれています。三つ目だけ、他の二つと温度が違う。喜びと楽しみのあとに、いきなり、認められないときの話が来ます。

学びて学んで、時にそれを復習する。喜ばしい朋あり友が遠くから訪ねてくる。楽しい人知らずして人が自分を知らなくても腹を立てない。それが君子学びて学んで、時にそれを復習する。喜ばしい朋あり友が遠くから訪ねてくる。楽しい人知らずして人が自分を知らなくても腹を立てない。それが君子
論語 学而第一の第1章。三つの文で、学び・友・認められない話が並ぶ。

孔子自身が、認められなかった人でした。55歳で祖国の魯を去り、衛、宋、鄭、陳と諸国を回って自分の考えを説いた。その期間は、およそ14年。どこの国でも本格的には用いられず、68歳で魯に戻り、あとは世を終えるまで弟子の教育に専念しました。

55歳祖国を去る改革に失敗して職を退く14年諸国を遍歴どの国でも本格的には用いられず68歳魯に戻る以後は弟子の教育に専念55歳祖国を去る改革に失敗して職を退く14年諸国を遍歴どの国でも本格的には用いられず68歳魯に戻る以後は弟子の教育に専念
認められなかった期間のほうが、はるかに長い。この一文は、本人の実感だった。

この一文は、きれいごとではなく、本人の実感だったと読むほうが自然です。認められない14年を歩いた人が、認められなくても腹を立てない、と書いた。順番として、そちらのほうが筋が通ります。

最初と最後を、同じ話で挟んでいる理由

ここで、調べた話を置きます。

学而第一は、全部で16章あります。そして、その最終章、第16章は、こうです。

人の己を知らざるを患えず、人を知らざるを患う。

人が自分を知ってくれないことを気に病むな。自分が人を知らないことを気に病め。

つまり、学而第一という章は、第1章で「認められなくても腹を立てない」と言い、第16章で「認められないことより、自分が人を知らないことを気にしろ」と言って閉じています。最初と最後が、同じテーマです。

第1章人知らずして慍みず。認められなくても腹を立てない第2〜15章孝・信・礼・学びの姿勢など第16章人の己を知らざるを患えず。向きを自分から相手へ第1章人知らずして慍みず。認められなくても腹を立てな第2〜15章孝・信・礼・学びの姿勢など第16章人の己を知らざるを患えず。向きを自分から相手へ
学而第一の16章。入口と出口が、どちらも「認められないとき」の話になっている。

論語は、孔子の死後に弟子たちが編んだ本です。編んだ人たちが、この章の入口と出口に同じ話を置いた。それだけ、弟子たちにとっても、認められないことが大きな問題だったのだと僕は見ています。

孔子が言ったのは、我慢ではなかった

ここからが、今日の本題です。

第1章だけを読むと、認められなくても耐えろ、という我慢の話に聞こえます。ただ、第16章と合わせて読むと、別のことが見えてきます。

孔子は、認められたい気持ちを消せとは言っていません。気に病む向きを、変えろと言っています。人が自分を知らないことから、自分が人を知らないことへ。矢印の向きを、外から内ではなく、内から外へ。

人が自分を知らない評価されない、見てもらえない、伝わらない。矢印は外から自分へ向いていて、自分では動かせない自分が人を知らない目の前の相手を、どれだけ分かっているか。矢印は自分から外へ向いていて、今日から動かせる人が自分を知らない評価されない、見てもらえない、伝わらない。矢印は外から自分へ向いていて、自分では動かせない自分が人を知らない目の前の相手を、どれだけ分かっているか。矢印は自分から外へ向いていて、今日から動かせる
同じ「気に病む」でも、向きが逆。孔子が変えたのは、量ではなく向き。

僕の観察では、これはかなり実用的な話でした。人が自分をどう見ているかは、自分では動かせません。動かせないものを気に病むと、疲れだけが残ります。自分が人をどう見ているかは、今日から動かせる。動かせるほうに矢印を向けると、疲れ方が変わります。

たとえば、会議で自分の案が通らなかった日。矢印が外から内に向いていると、なぜ分かってもらえないのか、で一日が終わります。矢印を内から外に向けると、問いが変わる。あの人は、何を大事にして判断しているのか。何を怖がっているのか。それを知りにいくと、次の案の出し方が変わります。認められるかどうかは相手の側の話で、相手を知るかどうかは、こちらの側の話でした。

そして、不思議なもので——人をよく見るようになった人は、あとから人に見てもらえるようになります。順番が、逆でした。

2500年、同じ悩みが残っている意味

認められたい、という気持ちは、あなただけの弱さではありません。孔子の時代からあって、弟子たちが本の入口と出口に置くほど、みんなが困っていた問題です。

それを、2500年前の人が、我慢ではなく、向きの話として片づけていた。僕はこの一節を、承認欲求をなくす方法ではなく、承認欲求と付き合う方法として読んでいます。消すのではなく、矢印を持ち替える。それだけで、腹を立てずにいられる時間が、少し伸びました。