褒められると浮いて、けなされると沈む。その上下に、一日の気分が持っていかれる。承認欲求をなくしたい、と検索する方の多くは、たぶんこの疲れから来ています。
先に答えを言うと、承認欲求は、なくすものではありませんでした。ブッダが残した言葉のなかに、褒め言葉と悪口を、同じ列に並べた一節があります。そこを読むと、消す相手が違っていたことが分かります。順番に、書きます。
承認欲求は、なくせるのか
まず、無理な話から片づけます。認められたい、という気持ちは、人間である以上、勝手に出てきます。僕にも、出てきます。
止めようが、ありません。心臓が動くのを止められないのと、同じです。
だから、「承認欲求をなくす」という目標は、最初から達成できない形をしています。達成できない目標を掲げると、達成できない自分を毎日確認することになる。疲れの正体は、欲求そのものより、この確認作業のほうにあると僕は見ています。
ブッダが数えた、八つの風
ここで、調べた話を置きます。
パーリ語の仏典に、八つの世間法という教えがあります。ブッダはこう言ったと伝えられています。世間には八つのことが付いて回り、世間は八つのことの周りを回っている、と。
その八つが、これです。利得と、不利得。名誉と、不名誉。非難と、賞賛。楽と、苦。
日本の仏教では、これを八風と呼びます。利・衰・毀・誉・称・譏・苦・楽。ここで面白いのは、褒めるも、けなすも、二つずつあることです。誉は陰で褒められること、称は面と向かって褒められること。毀は陰でけなされること、譏は面と向かってけなされること。
つまり、褒められ方まで、四種類に分けて数えられている。それだけ人の心を揺らすものだと、2500年前から分かっていたということです。
褒め言葉と悪口が、同じ列に並ぶ理由
ここからが、今日の本題です。
僕がこの一節で目が覚めたのは、賞賛が「良いもの」の側ではなく、「風」の側に置かれていたことでした。
褒められて浮くことと、けなされて沈むことは、反対の出来事に見えます。でも、心を外から揺らすという点では、同じ一つの風の、表と裏です。片方だけ受け取って、もう片方だけ避けることは、できません。褒め言葉に浮く人は、同じ分だけ、悪口に沈みます。
だから、承認欲求を消そうとすると、話がおかしくなります。褒められたい気持ちを消したところで、風は吹く。問題は風ではなく、風が吹くたびに、心が動いてしまうことのほうでした。
仏典では、教えを学んだ人も、そうでない人も、同じように八つの風に当たると書かれています。当たらない人はいない。違いは、当たったあとに、それが無常だと知っているかどうか、だけでした。
「八つの風に動じない」と詩に書いた人が、川を渡った話
この八風には、有名な逸話がひとつあります。中国の宋の時代、詩人の蘇東坡は、川をはさんだ向こう岸の寺の禅僧、仏印と親しく、よく禅の話をしていました。
ある日、蘇東坡は自分の坐禅の境地に自信を持ち、詩を書いて仏印に送ります。その一節が、八風吹けども動ぜず。八つの風が吹いても、私は動かない、という意味です。
仏印は、詩を読んで、紙に二文字だけ書いて送り返しました。放屁。くだらない、という意味です。
褒め言葉を待っていた蘇東坡は、腹を立てて、すぐに舟で川を渡り、寺に乗り込みました。ところが仏印は留守で、門にこう書き残してあった。八風吹けども動ぜず、一屁にて江を打ち過ぐ。八つの風には動かない人が、屁のひと言で川を渡ってきた——と。
蘇東坡が運ばれたのは、非難の風だけではありません。詩を送った時点で、賞賛の風を待っていた。褒め言葉を待つことと、悪口に怒ることは、やはり同じ一つの風の表と裏でした。動じない、と言葉にできることと、動じないことは、別の場所にあります。
揺れなくなる順番
僕自身の話をします。会社員だった頃の僕は、名刺の会社名で、頭を下げる深さを変えていました。褒められた日は調子に乗り、無視された日は落ち込む。風に、そのまま運ばれていました。
変わったのは、風を止めたからではありません。整っている人のそばで過ごすうちに、浮いた瞬間、沈んだ瞬間に、「いま、風だ」と気づけるようになっただけです。
気づいた分だけ、揺れ幅が小さくなります。褒め言葉はうれしい。悪口は痛い。それは残ったまま、翌日に持ち越す量のほうが減っていきました。
承認欲求は、消えていません。八つの風も、今日も吹いています。変わったのは、風のなかで立っていられる時間のほうでした。ブッダが賞賛を風の側に置いたのは、褒め言葉を軽んじるためではなく、風だと知っている人だけが、風のなかで動かずにいられるからだと思います。



