そのあとで、自分を責めてしまう。妬んだ相手より、妬んだ自分のほうが、あとを引く。よくある夜だと思います。
先に答えを言うと、嫉妬が出てくること自体は、あなたの性格の問題ではありません。脳のなかでは、痛みと同じ場所が反応しています。問題は、そのあと何回握り直すかのほうです。順番に、書きます。
嫉妬は、脳のどこで起きているのか
ここで、調べた話を置きます。
2009年、放射線医学総合研究所の高橋英彦さんたちが、妬みの脳活動を測った研究を発表しました。参加者に、自分より優れた人物の話を読ませて、脳の反応を見る。すると、妬みが強いとき、前部帯状回という場所の活動が上がっていました。ここは、体の痛みを処理する場所として知られている領域です。
つまり、妬みは、脳にとって痛みでした。比喩ではなく、回路として。
研究には、続きがあります。妬んでいた相手に不幸が起きる場面を読むと、今度は線条体という場所が反応しました。ここは、報酬を受け取ったときに快さを生む場所です。しかも、妬みで前部帯状回が強く反応していた人ほど、相手の不幸で線条体が強く反応した。他人の不幸は蜜の味、という言葉が、脳の側から確かめられた形です。
この研究が教えていることは、二つあります。ひとつ、妬みが出るのは性格ではなく回路の話で、誰の脳にも同じ配線がある。ふたつ、痛いから、蜜が欲しくなる。人の不幸を願ってしまうのは、意地悪だからではなく、痛みを和らげようとする、ごく自然な動きでした。
嫉妬は、なぜ起こるのか
まず、責める必要のない話から。怒りも、嫉妬も、人間である以上、勝手に出てきます。僕にも、出てきます。
止めようが、ありません。心臓が動くのを止められないのと、同じです。
むしろ——嫉妬が出るということは、そこに自分の欲しいものがある、という合図でもあります。どうでもいい相手には、嫉妬しません。何を欲しがっているかを、自分より先に、感情のほうが知っている。
だから、出てきたこと自体を責めるのは、筋が違います。責めたところで、次も同じように出てきますし、責めたぶんだけ、その感情を長く見つめることになります。
嫉妬しやすくなるのは、どこからか
ここからが、今日の本題です。
僕は、小さい頃から空手を続けてきました。近所の公民館の道場で、月謝は四千円。組み手より、型を中心にやる道場でした。型というのは、目の前に相手がいると想定して、突きと、受けと、蹴りを、決められた順番どおりに繰り返す稽古です。同じ型を、何百回、何千回とやります。
最初は、頭で考えながら動かします。次はどちらの手を出すのか。どちらの足を前に置くのか。一つずつ思い出さないと、身体が動きません。それでも繰り返しているうちに、なにも意識しなくても、動くようになります。
そして、やめてから10年近く経ったいまでも、その型をやれと言われたら、一つも間違えずにやれます。身体が、覚えているのです。
心にも、まったく同じことが起きていました。
思考は、使えば消耗します。そして、繰り返し使えば、その方向に強くなっていきます。毎日、誰かに嫉妬していれば、自分に足りないものを探す力が、そのぶんだけ鍛えられます。毎日、人を批判していれば、欠点を見つける力が鍛えられます。
すると、そのうち、嫉妬したくなる出来事ばかりが目に入るようになります。これは、罰でも、意地悪でもありません。現実のなかには良いものも悪いものも同じだけあって、そこから、鍛えた型に合うものだけを、心が先に拾い上げているだけです。
出てきたあとで、何ができるのか
やれることは、ひとつだけでした。
生まれた一回は、選べません。でも、そのあと何回握るかは、選べます。
人の失敗を願うかわりに、自分の成長のほうへ意識を戻す。誰かの成功を妬むかわりに、そこから学べるものを探す。一度でうまく切り替わらなくても、かまいません。
空手の型と同じで、心の型も、一度では変わらないからです。回数だけが、形を変えていきます。
僕が精神性の高い人と呼んでいるのは、幽霊が視える人でも、未来を当てられる人でもありません。自分のなかに生まれた思考を眺めて、どれを育てるかを自分で選べる人のことです。生まれてこない人ではなく、握り直さない人でした。
嫉妬しない人になる必要は、ありません。痛みの回路は、誰にでも配線されています。握る回数が減るだけで、目に入る景色のほうが変わっていきます。


